
今年、2025年はラジオ放送が始まって100周年ということで、放送の歴史みたいな番組を見た。ラジオ放送が始まった1925年当時、いろんなジャンルの音楽、野球や相撲などのスポーツ中継、放送劇や落語など、それまではライブで楽しむしかなかったものが、電波を受けるハコから出てきて、家にいながらにして楽しむことができるようになり、娯楽の王様と呼ばれていたとのことだ。
その後、テレビやインターネットの登場で、映像メディアの勢力が強くなり、娯楽の王様の地位は他に譲ったものの、ラジオは、100年経った今でもその人気は衰えていないし、PodCastやインターネットラジオなども出てきて、むしろ増々人気を博しているようだ。ラジオファンの自分にとっても、なんだか嬉しい。
もう15年以上前になるが、大学でメディア産業論という講座を担当したことがある。その時には、従来のテレビやラジオは、1か所の放送局から視聴者への一方向のメディアであるのに対して、インターネットは本質的に双方向のメディアであり、情報の伝達やコミュニケーションのありかたなど、従来メディアは変革を迫られている、と言うような内容を喋った記憶がある。でも、最近、ラジオが一方向メディアだということに疑問を感じるようになってきた。それは、リスナーとの双方向コミュニケーションと言う意味での双方向性ももちろんあり、その話題は次回以降に譲るが、より基本的なレベルで、放送を受信すると言うことには双方向性が含まれていることに気が付いた。それは以下のようなことだ。
私が子供の頃、ラジオを聴くためには、受信機の「ダイヤル」を回して、放送局が発信している電波と同じ周波数にぴったり合わせる作業が必要だった。年配の人は、何をあたりまえのことをを思われるかもしれないし、昔のラジオを知らない世代の人には、ラジオのダイヤルは??かもしれないが、私にとってラジオは、周波数を合わせる装置だった。リスナーは、ただ待っていてるだけではラジオの声を聞くことはできない。送り手の周波数に合わせるという、能動的行為を経てはじめて電波を音にできる。インターネットの現代、”Radico”や”らじるらじる”では、わざわざダイヤルを回す必要はないが、アプリを選び、番組を選ぶという行為にその名残をとどめている。放送とは、技術レベルでは、送り手と受け手が、同じ周波数を共有することに同意する必要がある。単純な物理的レベルで既に双方向なメディアなのである。
あまり拡大解釈するのもよくないかもしれないが、コミュニケーションとは、この「周波数を合わせる」という行為なのではないか思う。受け手は送り手の周波数に合わせ、送り手も受け手の意見に耳を傾ける。通常の会話では、一人の人が送り手にも受け手にもなるが、どちらも、相手の言っていることに波長を合わせて理解するよう努めなければ、コミュニケーションは成立しない。ラジオのしくみは、このコミュニケーションの最もプリミティブな形をしている。
少し前に、ほぼ日でイトイさんが、名人のアドバイスやコツは、それを本当に求めている人にだけ響く、という趣旨のことを言っていた。同じアドバイスを受けても、それに真剣に取り組んでいる人にとっては、珠玉の名言となるが、同じことを聞いても、受け取る気のない人には、単なる普通の言葉になってしまう。これは、私の“ラジオは周波数を合わせる論”では、受け手が送り手の周波数に近づきたいと思っている時だけ、名人のアドバイスが伝わる、と言い換えられる。特に、伝達内容に方向性がある場合は、主に受け手側の技量の比重が大きいように思う。
2025.8.25.月
写真:古いラジオの写真(日本ラジオ博物館)https://www.japanradiomuseum.com


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