
その昔、インターネットのない時代には、ラジオのリスナーはハガキで「お便り」を送っていたが、今ではX(エックス)にコメントを投稿して、パーソナリティがそれを読んでリスナー同士で話題を共有するようになった。リスナーのハガキを紹介する番組は、多分ラジオ放送が始まった100年前からあっただろうと思うので、そのスタイルは100年経っても変わらない。SNSによって、話題を共有するしくみがより強化され、ラジオの人気は衰えていなのだと思う。ラジオは、TVよりもリアルタイム性が強く、リスナー同士を繋げる双方向性が強いメディアなのだ。
数年前に、eスポーツについて、競技者と観客が同じ画面を見て楽しむことができるもので、その特徴はこれまでのスポーツ観戦にはなかったものだと気が付いて、「共視」のスポーツだと書いたことがある。詳しくは先の投稿を見てもらえればと思うが、共視とは、二人以上の人がともに一つの対象に目を向けることを言う 。向かい合ってお互いを見つめ合うより、隣り合って並んで、同じ方向を見ながら話をするほうが親密感が増す、それが共視である。これも少し前の話になるが、NHKの大河ドラマで「光る君へ」という、吉高由里子の演じる紫式部が主役の歴史ドラマをやっていた。ドラマの中で、まひろ(紫式部の通常の名前)と柄本佑の演じる藤原道長が、惹かれ合うのに離れた場所に居る状況で、夜、同じ月を視てお互いを想い合うシーンが何度か出てきた。典型的な共視の風情である。
そもそも、ラジオというメディアでは、リスナー同士は向かい合うことはできない。同じ番組、同じパーソナリティ、同じ曲を共に聴いてその曲やそのエピソードに思いを馳せることしかできない。つまりラジオとは、その仕組み上、「共聴」することしかできなメディアなのである。対視より共視のほうが仲間意識が強まるように、共聴した者同士は、その番組を共有しているという仲間意識が、映像メディアの視聴者同士よりも強くなるのは当然のことのように思う。この共聴性が、ラジオというメディアが100年経っても人気を保っている理由のひとつに違いないと思う。
もうはるか昔の話だが、私が大学生の頃、中島みゆきのオールナイトニッポンという深夜ラジオを聴いていた。みゆきさんの歌は、超暗かったりじんわり沁みたりするが、オールナイトニッポンでしゃべると、超ハイテンション、バカ丸出しで、そのギャップにやられて、学生時代はこのラジオ番組とともに過ごした。名物コーナーの、家族の肖像というコーナーでは、リスナーから寄せられた、家族のユーモラスな言動が紹介され、驚いたり共感したり同情したりして、リスナーのみんなにとても親近感を抱いたことを思い出す。みゆきさんのオールナイトニッポンは、1987年に終了したが、そのときには、自分にとっても、世の中的にも、1つの時代が終わったように感じたものだ。
2025.9.8 月
画像:ChatGPTに描いてもらった、紫式部と藤原道長が月を共視する画像
月の大きさが左右で違ったので、ダウンロードして手で修正したもの


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