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宗教考 ~ その1・お経の現代語訳で考えてしまった(がんばれ仏教)

time 2014/08/10

   近しい人の法事があり、お寺にお参りに行った。親族が集まり、住職の方がいわゆるお経をあげて、故人を偲ぶのであるが、その寺では、数種類のお経の中で、一種類については、「いわゆるお経」ではなくて、お経の現代語訳を取り入れていた。私もアラフィフ世代で、法事や葬儀も何度か経験しているが、現代語訳のお経を取り入れているお寺は初めてで、新鮮であった。確かに、お経は、サンスクリット語なのであろうか、日本語でないことは確かで、興味を持ってお経の本などを読まない限りは、お坊さんが何を言っているのかわからないのがあたりまえ、と思っている人が大半だと思う。

うろ覚えだが、確か、「無量寿経」の後半の一説だと言っていた。もちろんすべて覚えているわけではないが、全体のトーンはこんな感じだった。「人間は愚かであるから、悟りを得ようとせず、欲望を満たすため、ただお金をかせぐためにあくせく働くだけで、少しも心休まる時がない。まったく救いようのない存在で、痛ましい限りである。一体何が楽しくて生きているのか。」

なぜ、長いお経の中で、この部分の近辺だけの現代語訳を選んで読んだのかわからないし、お経全体の文脈の中に位置付ければそれなりに納得できるのかもしれない。しかしながら、説教で取り上げられたところだけから考えるに、あまりに上から目線の物言いであり、普通にまじめに生きている人に対して、大変失礼な言葉であると感じ、胸が悪くなった。

無量寿経の一部分で言っているような、お金のためだけに働いている人は、世の中では少数派だと思う。働くことに価値を見つけ、関わる人の喜びに喜びを感じ、自分の技が磨かれることに大いなる楽しみを感じて、日々仕事に精進している人は、いっぱいいる。無量寿経の作者には、NHKの「プロフェッショナル」を見てみることを勧める。私自身の経験でも、生まれてこのかた50余年、ただお金のために働く人に出会ったのは、ごく希で、多くのまともな人は、上のお経の中での指摘には全くあてはまらない、ごく普通の、健全な生き方をしている人々である。菩薩がどんなにありがたい人であっても、一日の終わりに、冷えたビールを飲む楽しみを否定するような言い方をする人であれば、人生なめんじゃないと言ってやりたい気持ちになる。

いつものパターンで、予め断っておくが、私は、家には仏壇もあり、彼岸やお盆などには、仏壇に手を合わせる。ごく普通に仏事とかかわっており、それを次の世代にも渡して行きたいと思っている一人である。また、もっと広い意味でも、今の、ケーザイ至上主義の風潮を憂え、もう少し精神的な豊かさを重んじる世の中になってほしいと思っていて、そのために、仏教には、それなりの役割があるはずだと期待もしているような人間である。仏の教えについて詳しく学んだわけではないが、般若心経の本は三冊ほど購入して読み、仏教の基本的な考え方は、それなりに理解しているつもりではいる。ところが、寺で、上記のような説法を聞いて、少なからずがっかりした。この人たちは、本当に世の中や人間のことをわかっているのだろうか?

悪口ついでに言ってしまうと、ブッダの生き方にも一言文句がある。ブッダの人生については、手塚治虫の「ブッダ」を読んだぐらいの知識しかないが、そもそも、妻子を捨てて自らの悟りのために家を出て、一人修行をするなぞ、非常識極まりない。ブッダの奥さんは子供をかかえ、市役所へ母子手当の申請に行かなければならない。夫が家出をしました、と。まぁ、ブッダの場合、家が王族で、母子手当など必要なかったという事実は置いておいたとして。妻子を養うために働くことのできないような人が、本当に他人を救うことなどできるのだろうか、と思ってしまう。仏教について関心を持って以来、昔からずっと引っかかっている感想である。浅はかで単純な感想だという批判は、甘んじて受ける所存である。まぁ、そんなこんなで、がんばれ、仏教。

2014.8.10(日)

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Toshi's Profile

会社員(製造業・雇用延長)。元SE、元大学非常勤講師、元ロルファー。DIYと散歩とメモが趣味。Moleskineを持ち歩いている。愛知県岡崎市在住。
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