
少し前に、何かのTV番組で、イタリア料理の有名なレストラン、「ドン・アルフォンソ」のシェフだったか創業者だったかのインタビューを見たことがある。そのレストランは、イタリアの地元食材を使った、地産地消の店として知られている。定かには覚えてはいないが、確か創業者は、ドン・アルフォンソさんと言う方だったように思う。その方が、こんな意味のことを語っていた
「イタリア料理というものは、実はないのです。あるのは、それぞれの土地の郷土料理だけ。だから、イタリア料理というのは、単に、多様な郷土料理の総称にすぎないのです。」
それを聞いたとき、ピンときた。なぁるほど、その考えかた、いいネ、と思った。いかにも地元の食材にこだわる人の言葉だと思った。そして、「帰納」について書こうと思ったとき、この言葉を思い出した。イタリア料理というものはなく、あくまでも実体のある個別の料理の集合として、大きな概念ができているにすぎない。アルフォンソさんも、帰納の人である。
話は少し飛ぶのだが、インターネットというのも、この、イタリア料理と同じなのではないかと思う。インターネットは、確かに存在するのだが、その実体は、企業や組織のローカルなネットワークが相互に接続されたものであり、それが、結果として世界でただ1つの巨大なネットワークを形作っている。言わば郷土料理の集合体と言っても間違いではないだろう。そうして、今や手のひらにのる小さな薄っぺらいデバイスが、電波を通してその世界と私をつないでる、、。
ただし、インターネットには、TCP/IPという共通の演繹的な仕様があって初めて成立する。隣人と話すためには、共通の言葉が必要なように、インターネットには、共通の通信プロトコルに依存しており、それは極めて演繹的に作用している。演繹的なしくみの上に作られた帰納的な実体、それがインターネットだと言える。でも、そんなことを言えば、そうでないものを見つけるのは難しいのかもしれない。例えば地球に生息する生き物は、DNAという共通のしくみの上に、帰納的な実体として存在している。何だかあたりまえの結論に戻ってしまったようだ。私の帰納をめぐる小さな旅は、ボチボチこの辺で終わるとしよう。
2012.3.13(月)
写真:プロシュット・ディ・パルマ(パルマハム)Wikipediaより(User:BMKによる)