Deep Breath

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部分と全体・その4 〜 観客も含めて野球

time 2020/07/11

 今年はコロナで野球観戦できるのだろうかと思っていたが、2ヶ月遅れで無観客で開幕して、昨日からは人数限定ではあるものの、観客が入っての試合が始まった。一方で東京では感染者が1日200人を超え、5,000人もの人が集まる場所を作ってよいものかと心配になるが、スポーツファンとしてはともかく観戦できることがありがたい気持ちもある。

 そんな訳で、しばらくの間、無観客のプロ野球の試合をTVで何度か観戦した。最初は、森閑とした球場に戸惑いを感じた。ヒットを打っても、ファインプレーをしても歓声がない。TVのスピーカーから聞こえてくるのは、ミットでボールを受ける音、乾いた打球音、ベンチの選手の声など、言わば生の野球の音であった。そのことで、野球観戦での音の主役は、観客の声援、チャンステーマの歌声、ため息など、観客の音だったのだと思い知った。

 野球観戦は、確かに野球を見るのだが、野球だけを見ているのではなく、観客を含めて、球場で行われている全てを観ることだった。言い換えると、観客も野球の一部であることに改めて気づかされたと言うことだ。そう言えば、ナゴヤドームでメガホンを叩いていた時、ゲームの内容もさることながら、相手チームの応援や、ドラゴンズファンの声援と一体となったようなライブ感覚を感じたのは、観戦している自分が、同時に、そのゲームを構成する1人として野球に参加し、野球の一部になっていたからなのかもしれない。

 若い頃、チョプラさんの本で、「風景を見ている人が風景の一部になるプロセス」という文に出会って、その後何となく心に残っている。この一文の意味は、自分がこうなりたいと思っている風景を外から見ている人が、一歩を踏み出してその風景の中に飛び込んで、その風景を構成する一部になる、という解釈が順当だと思うので、上で言っている、観戦者が実は観戦される側だったと気付くこととは少しニュアンスが違う。一歩を踏み出すポジティブさも大切だとは思うが、風景を見ている自分を一歩離れた場所から客観的に観ると、実は風景の一部だったと気付く感覚の方が、リカーシブな感じもあり、筋が良い感覚のように感じる。

 昨日は、今シーズン初めて観客を入れての試合の後に、選手会長の京田選手が挨拶していたが、それが結構良かった。ファンの応援が選手の力になり、選手の頑張りが誰かを勇気づける。我々は応援の力を信じている、心を一つに One Blue。今日のドラゴンズは打たれすぎたが、あきらめずに応援していこう。

2020.7.11(土)
写真:京田選手(ドラゴンズオフィシャルサイトより)

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Toshi's Profile

会社員(製造業・雇用延長)。元SE、元大学非常勤講師、元ロルファー。DIYと散歩とメモが趣味。Moleskineを持ち歩いている。愛知県岡崎市在住。
toshi@ueba.sakura.ne.jp
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