2024/04/14

欧米各地に「禅センター」ができているという話題を、永平寺・禅の世界というTV番組で見た。何年か前に見た記憶があるので、再放送だと思うのだが、その番組でアメリカ人の女性がインタビューに答えて、「数年間座禅を続けてきて、自由になれた気がする」と言っていた。ちょうど自由について考えていた時だったので、TVのテロップに表示された、その「自由」という言葉に反応してしまった。
前回、自由とは・・・できること、と書いたが、先程のアメリカ人女性の自由は、それとは違う意味で使っている。彼女の言った自由とは、何かに囚われていた自分の心が、そのとらわれから離れて、軽くなった、または風通しがよくなった、と言うニュアンスで語られている。知らず知らずのうちに、長年心に染み付いていた固定的なものの見方から離れることができて、より素直に世の中や自分の心と向き合えるようになった、と言っているように思えた。座禅で得られる心の自由、確かにそういう自由もあるよな、と思う。
そもそも、お釈迦様が体得したこと、そしてみんなに伝えたかったことは、心のとらわれから自由になるためのメソッドではなかったか。この生きにくい世を生きるための知恵として、心の自由を得るための考え方と方法を示した人が釈迦だと言っても、あながち間違いではないと思う。お釈迦様の示した「自由」とは、どうしようもない感情や欲望にから自由になることの意味で、アメリカで座禅に取り組んだ女性が得た心の自由は、そんな意味を含んでいると解釈できる。
でも、物欲や色欲から自由になれと言う時、それは、最低限住む家や食べ物が十分にあった上のことだと思う。今の世の中のように、難民となって故郷を追われ、食べ物も十分にない人々に対しても、色即是空なのだと説けるものだろうか?お釈迦様なら、そういう人だからこそ仏道が必要だと言うかも知れないが、自分のような不覚者には、とてもそうは思えない。そういう人々には、まず安心して眠れる場所と、自立のための活動に必要なエネルギーを生み出す食べ物を得る自由が先決のはずだ。住む場所も食べ物もない状態で、心の自由を求めるのは無理がある。
ともあれ、新型コロナで、行動の自由が制限されている毎日、不自由だと感じることが多くて、ウィルスへの恨みは増すばかりである。ウィルスは、人間の都合など関わりなく、自由気ままに人の細胞に取り付いて増殖している。このような理不尽さに対しても、心の囚われを離れてウィルスを許すなどということはとてもできない。距離を保つこと、手を洗うこと、マスクを着けることなど、できることはもちろんやってはいるが、それにしても、早くワクチンが完成して、コロナの息の根を止められないかと、神仏に祈っている毎日である。
2020.4.29(水)
写真 座禅(フリー素材より)