2024/04/14

そのセカンドライフのブームも下火らしい。ブームが下火になって、本当にバーチャルな世界が好きな人だけが残ったということだろう。世界的には数百万人のユーザがいるとのことだが、日本人ユーザー(人口)は数万人で、ここ数年大きな変化はないらしい。それでも、多数の固定ユーザを持つ、それなりに大規模な仮想世界であることに変わりはない。
私は、この世は現実世界だけで十分だと思っているので、セカンドライフにアバターとして暮らしたいと思ったことはないが、セカンドライフが出た当時、仮想世界のお金が、現実世界のお金に交換できることに、感慨深く想った者の一人である。セカンドライフに限らず、ゲームの世界では、ゲームの中の様々なアイテムを、実際のお金で売買することはよくあることのようだが、そういった特定のアイテムではなく、通貨の交換、ということに、何か違和感もあり、あたりまえのようでもあり、複雑な想いがしたものだ。
結局、お金とは、本質的にバーチャルなものだということを再確認できただけのことなのだろう。もともと、人が集まるところで物々交換に不便を感じた人が、貝殻とか石とか金属とか、何にでも交換できる小さなものを使うことを思いついたのがお金の始まりだろうが、その起源からして、そもそも初めからバーチャルなものとして誕生したものだ。そして、その本質的な性質は、お金が電子的な世界の中で使われるようになった現代に至るまで、何も変わっていない。
そのような根本的なところは納得できるのだが、計算機の中の仮想的な世界で使われているお金が、何らかの操作を経て、銀行のATM装置から出てくるという事実には、相変わらず違和感を覚える。私は経済学には全く疎い人間だし、セカンド・ライフの通貨発行のしくみを全て理解しているわけではないが、各国の財務省や造幣局が作るお金と、仮想世界の中でコピーコマンドで作るお金に、どのようにしたら互換性があると言うのだろうか。
物々交換の時代に戻ればよいわけでないのは十分わかっているが、その時代の人が、交換したものを手に持った時に感じたであろう、確かな質量の感覚を思うと、仮想世界で、全く身体感覚のないアバターが得たお金、あるいは払ったお金が、ケータイを小さな装置にかざすだけで受け渡されるという現代は、本質的にリアリティを放棄しているように思う。そんな風に思って、セカンドライフの中の仮想の公園のベンチに座ったアバターが、今日も物思いに沈んでいるような気がする。
写真:MS Word のクリップアートより
コメント
[…] オンラインについての記事では、オンライン技術がオフラインをめざして、その間を埋めてきことと、自分にとってはリアルな対面より、現在のオンライン技術程度のバーチャルさ加減が心地よいと書いていたり、類似の話題で、メタバースでのアバターという身体的なものと、リアルな身体感覚の間に思いをはせたり、バーチャル世界の通貨とリアル世界の通貨の互換性から、通貨の本質的な仮想性に思い至ったりした。 […]
by 境界考・その3 ~ 境界と「間」 | Deep Breath 2025年3月29日 11:27 AM