2024/04/14

勤務先にお湯のサーバーがあって、お昼休みに、家から持参したインスタントコーヒーを飲んでる。毎日のことなので、コーヒー代節約のため、大瓶から小瓶に分けて持っていくことにしているのだが、先日、もらいものの大瓶があって、それを開けたとき、入っていた箱を解体して段ボールとして捨てた。インスタントコーヒーを飲むためにも、粉を大瓶から小瓶に移し替えるだけでなく、箱を解体して廃棄するという付帯作業が必要で、なんか面倒くさく感じた。コーヒーを飲みたいだけなのに。
何かをやろうとすると、そのために付随してやらなければならい付帯作業がある。準備とか後片付けとか、段取りと言ってもよい。同じ日に、通販で購入した書斎用のリクライニングチェアを設置したのだが、それも付帯作業が膨大だった。まず、今迄使っていた旧チェアを、娘に協力してもらって2階から1階に運び(これは後日粗大ごみに出すまでの仮置きのため)、空いた場所を掃除し、新チェアをハコから出して2階へ運び、肘掛けやオットマンを組み立てて、設置した。細かいことを言えば、組み立てるために必要な工具を、工具箱に探しに行ったり、設置後には、入っていた巨大な段ボール箱を折りたたんで廃棄できるように縛ったり、ほぼ1日仕事になった。
やっとひと段落して、新しいチェアに座って、「うん、なかなか良い座り心地、コスパのよい買い物ができてよかった」と一息ついたとき、今日1日の労働はこの時のための付帯作業だったのだろうか?と考えてしまった。付帯と言うより、チェアを撤去&設置するという本来の作業だった。ま、書斎用のチェアであれば、一度設置すれば10年ぐらいは「座る」という本来の使い方ができるので、時間の長さで言えば、たかが1日、10年間座るための付帯作業と言ってもよいのかもしれないが、でも、時間の長さの問題でもない気がする。
一体、人生のうち、何割が本来やりたいことで、何割が付帯作業なのか?お風呂に入るにも、水を抜いて浴槽を洗いお湯を張るなどの他に、服を脱ぐ、出てからは体を拭いて服を着て、髪の毛を乾かすなどの、本来のお風呂に入る以外の付帯作業がある。歯磨きなど、そもそも歯を磨くことが目的ではなく、モノを食べるための付帯作業そのものだし、そうなると、掃除などは、快適に暮らすための付帯作業になってしまう。こう考えると、本来やりたいことと付帯作業って何なのか、わからなくなってくる。
もっと端的な例で言おう。医療というのは、健康に暮らすための手段であり、その意味では健康に至るまでの付帯作業になる。医療は目的ではなく、健康という目的のための付帯作業。ほかの例では、コンピューターシステムは、サービスを提供するという目的のための手段であり、システム開発はそのための付帯作業。食事をするというのも、生きていくという目的のための、栄養摂取のための付帯作業。
結局、人生というのは、付帯作業の積み重なったもの、付帯作業そのものなのではないか。昔このテーマで書いた、「勝ち負けなど、最高の棋譜を作り出すという真の目的のためのオマケにすぎない」と言う、元将棋名人の佐藤天彦さんの話題を思い出した。勝つという、本来の目的っぽく見えることは、最高の棋譜を作り上げるという、付帯作業の単なるオマケにすぎない。付帯作業の中にこそ、本来大切にすべき本質があるのではないか。
こんな「よしなしごと」を書くっていうのは、本来やりたいことなのか、付帯作業なのか?書斎に設置した新チェアーでくつろぎながら考えている。
2024.1.21.日
写真:Adobe Fireflyに描いてもらったイラスト、歯磨きをするロボット