2024/04/14

先日、通勤用にビジネスリュックを買った。今までは手に持つタイプのよくある普通のカバンだったが、リュックを背負っていつもの通勤の道を歩き始めた途端、両手を振って歩けることに、何と自由なのだろうかと思って、ちょっと感動した。たかが両手が自由になったぐらいでと思うかもしれないが、そう感じてしまったのだからしかたがない。でも、カバンを手に持たなくてもよくなっただけで、これだけ自由になった気がするのは、一体何なのだろうか?と考えてしまった。
自由考その1で、自由とは・・・できること、と書いたが、手さげカバンをリュックに変えて両手が使えるようになっても、通勤途中にその自由になった両手で何かをするわけではないので、何かができるようになる自由とは少し違う。せいぜい両手を振って歩くことができるだけである。強いて言えば、何かをすることができる可能性を手に入れたことが、自由だと感じた要因なのだと思う。実際に何かをしなくても、あんなことも、こんなこともできる可能性、それがビジネスリュックで感じた自由の意味なのだろう。ポテンシャル、という言い方をすることもある。
そう考えてみると、人類が2本足で立って歩くことで、両手が使えるようになった時に感じた自由とは、まさにこの感覚ではなかっただろうかと想像が膨らんだ。今まで、移動するときに使っていた前脚を、もう使わなくてもよくなったとき、そのフリーになった前脚で、何をするわけでもないのに、その2本の脚だったものを動かしてみて、何と自由なんだろうか、と感動して、意味もなく動かしてニヤニヤしていたに違いない。その感動が、火を起こし、石を削ってナイフを作り、船を作り、自動車を作り、やがて指先で操作する小さな情報機器を生み出す原動力になっているように思う。人類と道具とは、この自由の感覚で深く結びついている。
人類の歴史は、道具を作ってきた歴史であると同時に、自由を求めてきた歴史でもある。もちろん、科学技術だけでなく、政治も経済も思想も。もう少し言葉を足せば、科学の歴史は、自然の法則を明らかにすることで、分からないことから開放される自由。でも、科学の場合は、わからないことが1つ減ると、新たに2つの疑問が発生するというワクワクする世界のようだけど。政治で言えば、フランス革命や、現在進行形の香港の例を持ち出すまでもなく、人としての権利が守らている社会を作り、そこで生きる自由。
だから、人生の目的が、いろんなことから自由になることだと思うのは、むしろ当然のこと。なぜならそれは、人類が77万年をかけて目指してきたものなのだから。
2020.11.14(土)
写真:ビジネスリュック MAMMUT Seon Shuttle