2024/04/14
先日、宇治を訪れた。大修理を終えた平等院で阿弥陀如来様のありがたい姿を拝み、上林家の末裔の営むお茶屋さんでお茶を買い、おばんざいのバイキングを楽しんだあと、三室戸寺にあじさいを見に行った。寺までは、宇治駅からバスで10分ほどなのだが、あじさいが見頃の休日とあって、バスは満員で、若い人からお年寄りまで賑やかだった。しかも近くに乗り合わせた若い女性やおばちゃんの一団が、威勢よく世間話をしていて、寺までの道中を関西弁の嵐の中で過ごした。こういう雰囲気は嫌いではないので、楽しい時間であった。
こっから先は、関西弁で書いてみようと思うんで、関西のイントネーションで読んでみてほしい。それから、関西弁言うても、地域によって、大阪弁、河内弁、京都弁、神戸の方言などそれぞれ違っている(ちごうてる)けど、便宜上、自分にとって馴染みのある大阪弁を、代表として書かせてもらう。自分は三河人やけど、大学時代に6年間、大阪で暮らしていたことがある。最近は、関西出身の芸人さんも多く、テレビやラジオでも普通に関西弁が喋られているので、関西地方以外の人は、お笑い芸人さんが喋ってると思って読んでもらえば、だいたい雰囲気は伝わると思う。
まぁ、宇治でそんなバスに乗ったこともあって、関西弁って、やっぱええなぁと思った。大阪や京都に住んでいれば、その土地の言葉はあたりまえなんで、今更何を言うてんの?と思われるかも知れへんけど、普段、標準語的な世界で生活してると、やっぱ、関西弁ええなぁ、と思うことがある。特に、イントネーションがええと思う。いわゆる標準語は、イントネーションが乏しい。それに比べて、関西弁には、独特の抑揚がある。英語にしてもフランス語にしても、独特のリズムやイントネーションがあるやんか。関西弁は、世界の言葉と比べても、対等に美しいイントネーションがあると思う。残念ながら、ニュースで喋られるような標準語には、それがないんで、言葉として物足らんし、劣っているようにさえ感じてしまう。
宇治は、源氏物語の舞台にもなっていることから、源氏物語の資料を展示してあるミュージアムもあった。考えてみれば、多分、紫式部も、今の関西弁の祖先となるような言葉を喋っていたはずである。源氏は世界中で読まれている日本文学の代表である。それを生み出した場所が、関西弁の喋られている土地やったんやと思うと、関西弁こそ、正当な日本語であると言ってみたくもなる。最近、全国放送のバラエティ番組なんかで、普通に関西弁が喋られているのを見ると、意外とみんな、無意識にそんな感じを持ってるんやないかと思たりする。
でも、待てよ、と思う。関西弁だけが正当な日本語や、なんて言っている場合やないやろ。この話のお題は、帰納の時代やで。イタリヤ料理の話を思い出してみ。ドン・アルフォンソさんは、こう言うたやないか。イタリヤ料理なんてないんや、単にイタリア各地の郷土料理があるだけで、その集合をイタリヤ料理と呼んでいるだけなんや、て。言葉もそれと同じちゃうやろか。日本語なんて、ほんとはないんや、関西弁や東北弁や沖縄弁や三河弁があるだけで、それらを全部ひっくるめて、日本語と呼んでいるだけなんや、と。そない考えた方が、世の中うまくいくように思うねん。まぁ、全国ニュースや新聞の書き言葉を方言にすんのも、今更面倒やし、標準語があってもええのかも知れへんけど。
それでも、関西弁を標準語にしたら、楽しそやなと思う。NHKニュースのアナウンサーが、関西弁でニュースを読む世界、ええんちゃうか。でも、東北や沖縄の人が、大阪だけ贔屓すな、と言うやろな。やっぱ、関西だけやなく、日本全国、方言大事。
2017.7.4(火)
写真:紫式部 Wikipediaより