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自由考・その1 〜 自由とは、・・できること

time 2020/04/19

 しばらく前から、人生の目的はいろんなことから「自由」になることではないか、という仮説について考えている。まぁありふれた仮説だとは思うが、今迄そんな観点で周りのものを見たことがなかったので、そういう目で観ると、もっといろんなことから自由になってよいのではないかと思えてきた。そんなことを考えていると、最近、新聞記事やラジオの教養番組で、「自由ってなんだろう?」みたいなタイトルのものを相次いで見かけて、世の中は今、自由について考えるブームなのかもしれないと思った。新型コロナウィルスで個人の自由が制限される、みたいなことが話題になっていることと関係あるかもしれない。

 そんな折に、知り合いが、PCに保存してある文書を他の人に渡したいのだが、どうすればよいのかわからないと言っているのを聞いた。メールで送るとか、USBメモリにコピーして渡せばよいと言ったのだが、どちらもできないと言う。何と不自由なことか、と思った。その時、自由とは、「・・・できること」だと気が付いた。電子ファイルを他の人に渡すこと、わからない言葉をググって調べること、PCやスマホをWifiにつなぐこと、チャットやオンラインで通話すること。デジタルに馴染みのある人なら、あたりまえのように自由にできることが、ネットやデジタルが苦手な人にとっては、データを扱う自由の制限になっている。デジタルに限らない。外国語を話せる人は、外国人と話す自由があるし、楽器を演奏できる人は、他の人とセッションできる自由がある。

 もちろん、自由には、もっと幅広い意味があって、・・・できる、という一面の意味だけではないが、自由を単に「束縛がない状態」という、漠然とした一般的な意味のままにしておくのは、もったいないと思う。・・・できること、ととらえると、自由を得るためには、努力が必要だと納得できるし、そのための努力も楽しくなる。

 でも、この文脈を、もっと広義にあてはめてゆくと、努力とは無関係な自由もあると気付く。視力のよい人は、美しい仏像を裸眼で見る自由があるし、足の速い人は自分の足で風を切って走る自由がある。身体的な特徴まで自由だと言うと、ちょっと自分が不自由な気がしてきてしまうが、決してそんなことはない。全てが自由な人はいない、という意味では誰でも同じだと思っておけばよいし、大抵のことは、慣れればそれほど不自由ではない。眼鏡をすれば仏像を鑑賞する自由はあるし、季節のよい日に公園を走れば、足は遅くても気持ちのよい風を感じる自由はある。

 新型コロナで、いろんな自由が制限されていると感じることが多いが、自由について考える自由や、家にいて、こんな「よしなし事」を綴る自由は十分に残っている。何より人類には、新型コロナを撲滅する自由も、確実にあると信じている。

2020.4.19(日)
写真: ギター(自宅にて)

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Toshi's Profile

会社員(製造業・雇用延長)。元SE、元大学非常勤講師、元ロルファー。DIYと散歩とメモが趣味。Moleskineを持ち歩いている。愛知県岡崎市在住。
toshi@ueba.sakura.ne.jp
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