2024/04/14

歩くことが「帰納的」行為だという着想は、この時に得たものである。歩く、という行為は、基本的に左右の足を交互に振り出して前に進む運動である。右足を前に出し、地面に下ろし、体重を移動して、左足を前に出す。続いて右足を後方に蹴り、左足を着地する。右足と左足、そしてまた右足。一歩一歩、同じ動作の繰り返しが、全身を前進させる。これは、前回やや詳しく書いた、数学的帰納法の、S(k)とS(k+1)と、まさにそっくりなのである。2年前、そのことに気付いた。
歩いている限り、一足飛びに目的地には到達しない。一歩一歩を踏み出すことで、人はある場所に到達する。帰納的な感覚では、目に見える個別の事象を積み重ねることで、あることを見つけ出す、あるいは、何かを成し遂げる。それに比べて、演繹的な考え方は、まず、絶対的な真理から出発して、個々の事象を後から説明しようとする。
歩く、という行為を、演繹的にとらえると、目的地に着くための単なる手段に成り下がってしまうように思う。それは、最短コースで、効率よく移動する考え方であり、歩くよりも、車で行きたくなる。逆に、歩くことが帰納的だと納得するならば、その一歩一歩が目的地をめざす能動的行為となる。直線コースでなくても、寄り道をしながら、豊かな時間を過ごしながら、ゆっくりと目的地に近づいてゆく。帰納には、そんな感覚がある。
昨年、2011年、ドラゴンズは日本一は逃したもののリーグ優秀を果たした。そして、その途中で、守護神岩瀬投手は、プロ野球史上初の300セーブを達成した。そのときのインタビューで、大記録ですねと感想を求められ、「一試合一試合の積み重ねです」と言っていたのが印象的だった。300セーブをめざして登板していたのではなく、その試合、その1球を淡々と投げ抜いた結果、図らずも前人未踏の記録まで来てしまった、ということを表現した言葉だと理解した。岩瀬投手、まさに、帰納の人である。
演繹的考え方を悪く言い過ぎているかも知れない。確かに、演繹的に考えたほうがよいこともあるとは思う。いちいち事実を積み重ねるようなことをしていては、とても現実的でないこともあることは分かる。しかし、どうも、今の世の中を見ていると、何か安易に結論から出発しているような、演繹的な臭いが強いように思う。西欧の価値観を悪く言うつもりはないのだが、海の向こうの考え方には演繹的な性格が強いようにも思う。
価値観の揺らいでいる時代、足元の一歩一歩を踏みしめることで、明日を創り上げてゆく、そんな帰納的な感性を持った人が増えれば、もう少し生き易い世界になるのではないか、と思う。
2012.1.9(月)