2024/04/14

何を今更と思われるかも知れないが、話はこれからである。西洋では、17世紀、デカルトの時代に、身体は精巧な機械に過ぎず、精神こそが人間の本性であるという考え方が言い出された。それはキリスト教の考え方となじみがよかったため、広く受け入れられた。それ以来、西洋人は、カラダとココロを分断し、精神こそが世の中を認識し、未開人を解放し、自然を征服し、世の中をハッテンさせるのだと考えてきた。それが、現代社会の困難な問題の多くを生み出しているように思われてならないだが、、、。
それに対して、20世紀になると、フランスの哲学者メルロ=ポンティたちが、身体は単なる道具ではなく、身体こそが、人間が何かを認識するときの主体であると言った。身体こそが本質であり、カラダが感じることがそのまま私自身であり、外界であり、自分と世界との関係である、と。私は哲学を学んだ者ではないので、誤解があるかもしれないが、ごく短く言うと、そういう主張だと認識している。
ロルフィングの世界では、それはあたりまえである、と言うか、前提である。ロルフィングは、姿勢と呼吸と歩行の改善活動であるが、別の面から言うと、筋膜という組織を通して、感覚と認識を見直してゆく作業、と定義しても間違ってはいない。ただし、ロルフィングは哲学ではないので、念のため。ロルフインスティテュートでは、メルロ=ポンティのメの字も登場することはなかった。筋膜・筋肉・骨というモノの世界に、テツガクの入り込む余地は極めて少ないのだ。とは言いつつ、ホーリスティックな世界には、いつも若干の哲学的な臭いのすることは否定しないが。
ホーリスティックから、別の視点に思い至った。それは、私たち日本、あるいは東洋的な文化の視点である。身体は単なる道具ではない、でも、メルロさんの言うような、ニンシキの主体のような大袈裟なものなのだろうか?何もロルフィングでなくても、体で覚えることは、例えば職人さんの世界では常識だし、体育会系では、言葉の前にまず体が動かないといけない。そもそも、禅、茶道、能など、日本の伝統文化の世界は、身体を通して認識され、継承されてきたものだと思い当たった。なんだ、俺達日本人には、当然のこと。何もメルロさんに言われなくても、ちゃんと、脈々とやってきたことではないか。この国は、道元禅師や千利休、世阿弥の生きていた国である。メルロさんのはるか昔から、私たちは、カラダの国に生きてきたのである。
私はそのことを誇らしく感じるが、同時に、その誇るべき伝統が、急速に衰退しつつある現実を見るにつけ、危機感と悲しみを感じるのである。何かを変えねば!
2009.7.21(火)