2024/04/14

村上さんは、DNAの研究から、生物の体を作り出しているしくみがわかってくると、その精巧さは、とても人間の想像力の及ぶ範囲ではなく、何か「とてつもなく偉大なもの」の存在を感じる、ということで、それを、somethig greateと名付けた。「存在」と言っても、宗教で言う神のようなものではなくて、言わば、「自然の根底にあるもの」と言った感覚であろうか。
この感覚を感じるのに、現代の最先端の科学はいらない。高校の生物の教科書をきちんと理解すれば十分である。現役高校生の娘の本棚から、生物の教科書を拝借して検証してみたが、現代の高校生は、すごいハイレベルな学習をしているものだと感心した。教科書にプラスアルファが必要だとすれば、DNAの情報が発現するためには、何らかのオン・オフスイッチが必要なのだが、そのスイッチの制御機構には未解明の部分が多いこと、そして、DNAには自分自身を書きかえる能力があること、などである。重要なことは、これらの生物学的な知識を理解することではなくて、きちんと理解した上で、それを頭ではなく、心で感じてみる能力であろう。そうすると、村上さんの言っているグレートな何かを感じることができる。ある意味、身体感覚なので、ある程度のセンスは必要だが、まじめに感覚を磨くトレーニングをすれば誰にでも感じられるはずである。
村上さんは、このサムシング・グレートを、「神でも仏でも何でもいいが」、偉大な存在のことだと言っている。神でも仏でもかまわない、と言うのは、逆説的な表現で、世間で言われている宗教的なものとは無関係だという主張と理解する。あくまで、科学的な知見に基礎を置く感覚なのである。その意味で、既存の宗教とは全く関係がない。ただし、釈迦のような天才が、生命科学の知見なしに、この偉大な存在を直観した可能性は否定しないし、仏教の教える輪廻転生のような世界観は、「サムシング・グレート」の世界に似ていることもまた事実ではある。少々強引ではあるが、宗教とは、この「自然の根底にある偉大なもの」を感じ取って、それを神や仏と名付けた、と言う解釈もできる。
生命とは、所詮、いくら科学的な知見を重ねたところで、これで完全に生命がわかった、と言う到達点などないと思う。だから、最終的には、生命体である自分自身の感覚で感じ取る以外の方法はなかろう。知見の拡大は不可欠なので、科学的方法は否定しないし、推進してほしい。しかしながら、知識だけなら、ただそこにあるモノと同じで、たいした意味はない。分かることが重要ではなくて、よりよく生きることが大切なのだから。
今回の科学考では、生命科学の話が多くなってしまったが、これも時代の流れ。次に科学考を書くときには、もう少し広い視野で科学を考えてみたいと思っている。次回からは、カラダに戻って、少し軽い話題にしたいと思っている。
2009.9.3(木)
写真http://homepage3.nifty.com/morrio/back1/sinkaron/dna/dna.htmlより